コウノトリ100年の歴史(その2)
(1)昭和14年~20年(1939年~1945年)ごろ 戦争による環境破壊
コウノトリが巣をかける松の木が大量に伐採されました。松の根からとれる油を利用したり、戦地に木材を供給するためでした。
これにより、コウノトリは日本で子育てをする環境を失ってしまいました。
また、戦争はコウノトリの渡りルート(アムール川中・下流域・中国東北部~中国南部・朝鮮半島・日本など)を荒廃させ、生息環境をまるごと破壊してしまいました。
(2)高度経済成長期(1950年~60年代)
豊岡盆地一帯に広がっていた湿田や湿地が河川改修・農地整備により消滅しました。これによって、ドジョウ・フナなどの水辺の生きもの(=コウノトリのエサ)がすみにくくなりました。
また、農薬の使用が普及しました。農薬はドジョウ・フナなどの生きものを殺してしまうだけでなく、農薬に汚染されたドジョウ・フナなどを食べたコウノトリの体をむしばみました。
コウノトリは生息環境とエサを失ったうえ、農薬で体をむしばまれ、激減しました。
▲豊岡盆地の湿田(豊岡では「じる田」と呼ぶ。) 水はけが悪く、ぬかるみ、腰あたりまで沈んでしまうので農作業がたいへんでした。しかし、水辺の生きものにとっては非常にいい環境で、たくさんの生きものを育んでいました。水辺の生きものを食べるコウノトリも、その1つでした。
(3)昭和30年(1955年) 官民一体となった保護活動の始まり
減り続けるコウノトリを絶滅させないため、組織的なコウノトリ保護活動が始まりました。この年、行政と民間が一緒になって「コウノトリ保護協賛会」を結成しました。
この団体は、昭和30年代に「コウノトリをそっとする運動」、「ドジョウ1匹運動」(兵庫県内各地からドジョウを持ち寄り、コウノトリのエサ不足を解消する)、「愛のきょ金運動」(募金)を展開しました。
また、巣をかける松の代わりに人工巣塔を設置しました。しかし、その周辺の田んぼでは農薬がさかんに使用されました。
保護活動にもかかわらず、コウノトリは減り続け、昭和34年(1959年)を最後にヒナは一度も生まれませんでした。