最後の一羽が死んだ「絶滅の場所」から「野生復帰」へ... 豊岡とコウノトリの物語

絶滅危惧種のコウノトリを守りたい。たじまの人々がそう願うのは、ここは日本に生息するコウノトリの最後の一匹が亡くなってしまった場所だから。
コウノトリの舞う豊岡を再び取り戻すために立ち上がった市民の歩みと、コウノトリと人が共生する自然豊かな豊岡の今に迫ります。

かつて日本各地に生息していたコウノトリ。その数は、明治から昭和初期にかけての乱獲によって大きく減少しました。それだけではありません。戦後になると、農薬・化学肥料の使用、水田の乾田化、河川の護岸コンクリート化などが進み、エサとなる生き物の多くが姿を消してしまいました。

一度は絶滅!?たじまとコウノトリの結びつき

また、有機水銀が蓄積されたエサを食べて命を落とすコウノトリも現れるようになったのです。

そして昭和46年、兵庫県北部・たじまの中心に位置する豊岡市で最後の1羽が死に、ついに日本の野生のコウノトリは絶滅してしまいました。

JAたじま
広報課

豊岡の人々にとって、これはとてもショッキングな出来事でした。日本で最後の一羽となったコウノトリが、惜しくもこの地で絶えてしまったのです。

そこで私たちは「コウノトリを再び空へ」という強い想いを胸に、生息地域の保全活動を中心とする野生復帰への取り組みを開始しました。

コウノトリとの約束

一度は絶滅したコウノトリ。豊岡の人々の努力によって、現在では300羽を超えるコウノトリが野生復帰を果たし、かつてのようにたじまの空で優雅に羽ばたいています。しかし、その道のりは長い長いものでした。

豊岡市でコウノトリの保護活動が始まったのは昭和30年のこと。コウノトリの絶滅を危惧し、人工巣塔の設置や環境保全の見直しが行われましたが、その数は減る一方でした。

そこで昭和40年、人工飼育に踏みきることに。豊岡の人々はコウノトリと約束を交わします-「いつか必ず、大空に返してあげるから」。

昭和46年に国内最後の野生のコウノトリが絶滅した後も、豊岡市にある「コウノトリ保護増殖センター」では、捕獲したコウノトリの繁殖に懸命な努力がなされました。しかし、コウノトリが産んだ卵からヒナがかえることはなかったのです。

受難の時代が続いた保護活動に、ついに転機が訪れます。昭和60年、旧ソ連から6羽の幼鳥が豊岡市に贈られ人工繁殖がスタートしました。その4年後、ついに待望のヒナが誕生したのです。平成14年には、飼育コウノトリが100羽を超えるまでになりました。

そして平成17年、コウノトリ野生復帰の第一歩として、ついに5羽のコウノトリが豊岡の空に解き放たれました。保護活動開始から50年、人工繁殖開始から20年もの歳月が流れていました。

JAたじま
広報課

再び豊岡の空を舞ったコウノトリ。紆余曲折を経て、人と自然が共生する「コウノトリ野生復帰プロジェクト」が大きな第一歩を踏み出した瞬間でした。ヒナ誕生から飼育数100羽到達までに13年、さらに放鳥まで3年です。長い時間をかけて、豊岡の人々は試行錯誤を重ねてきました。

世界初、コウノトリの野生復帰を成功させた地域力

野生復帰のかなめとなるのは、コウノトリが安心して暮らせる自然環境作り。それには、市民がコウノトリを受け入れる土壌を作ることが必要不可欠でした。

コウノトリは、飼育下では1日500gの生き物を食べる大食漢。野生として生きるためには、エサとなる大量の生き物が必要になります。そこで市が呼びかけたのが、田んぼで多くの生き物が生息できるために「農薬に頼らない米作り」を行うことです。

JAたじま
広報課

農薬を使わないだけではありません。例えば、冬でも田んぼに水を張る「ふゆみずたんぼ」。水を少しでも長く張ることで、コウノトリのエサになる生き物が住み続けられる環境を整えます。また、一部の田んぼでは、どのような生き物がどれくらい生息しているか、調査を行うようにもなりました。

こうした取り組みのおかげで、田んぼに生命があふれるように。今まで見かけなかった生き物が増え、子どもたちからは喜びの声があがりました。

コウノトリや田んぼの生き物たちを守るため、私たちにできることは何だろう?たじまの人々がそう考え始めたのも、豊かな自然が身近なものになってきたおかげかもしれません。

JAたじま
広報課

農薬や化学肥料を極力使用しない「コウノトリ育む農法」で栽培された「コウノトリ育むお米」を食べることで保護活動に貢献しよう。そう考えて、給食にコウノトリ米を使ってもらえるよう市長に直談判した中学生グループがありました。

「これからの町づくりを考える機会があって、わたしたちにできることは何だろう?と考えたら、それは食べることだと思ったんです」と、当時の中学生は話します。

稲が実ると、JAたじまは「全量買い取り」という形で、皆のコウノトリへの思いに応えました。また、当時の中貝宗治市長は、コウノトリ米の給食導入を決意。現在では、週5日すべての給食でこのお米が食べられています。その数量は、年間95tにも上ります。

そして、生産者、JA、行政が一体となってコウノトリのえさをはぐくむ一連の米作りを「コウノトリ育む農法」と体系化し、推進していきました。こうして、子どもたちや一般市民の間にも、コウノトリを受け入れる文化や土壌は着実につくられていったのです。

コウノトリと共生するたじま

コウノトリを守るため、長い長い間、豊岡の人々は試行錯誤を重ねてきました。現在、実際にどのような取り組みが行われているのでしょうか。

その1 住みよい環境づくり

コウノトリが安心して巣作り、子育てができるように、高さ12.5mの人工巣塔を作ったり、田んぼに水がない時期にも、コウノトリがエサとなる水生生物を捕まえられるように、湿地やビオトープを作ったりしています。

その2 放棄田の有効活用

後継者不足などの理由で使われなくなった田んぼ(放棄田)を整備し、コウノトリの餌場として活用しています。地域住民とNPO、大学などが力を合わせて、コウノトリが暮らしやすい自然の再生に取り組んでいます。

その3 人と自然の共生を目指す農法

お米や野菜などを栽培する生産者の間で、農薬や化学肥料をできる限り使わない、人と自然の共生を目指す農業が広がっています。JAたじまでは一定の基準を定めた「コウノトリ育む農法」の普及に力を入れています。

試験放鳥から10年以上が経過した現在、たじまの空を舞うコウノトリは順調に数を増やしています。日本全国でコウノトリの姿が見られるよう、多様な生き物が暮らせる環境づくりと、その活動を応援してくれる人々・地域を増やし、広げていくことが必要です。

JAたじまでは、地域に根ざした協同組合として、2030年に向けて持続可能な社会の創造を目指す「SDGs」の理念の下、組合員と役職員が一体となって総合事業を通じた地域の活性化に取り組んでいます。

中でも無農薬・減農薬栽培の「コウノトリ育む農法」は、米づくりを通じた生物多様性の保護を実現しています。

JAたじまは環境への負荷軽減と安全・安心な農作物の生産を実現する「環境創造型農業」を、これからも推進していきます。

コウノトリ育むお米に関する活動レポートはこちら

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